インストーカー

恋愛小説を毎日連載していきます。

インストーカー51

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その51

    地元は空気が透明なせいで、寒さがより厳しく感じる。東京から二時間半電車で移動すると、こうも景色が変わるものか。いや、東京だって山手線から郊外に向かって駅を十も過ぎれば立派な田舎だ。東京の中心地と似た風景を俺の地元で見つけることはできない。だが、郊外の町並みは案外似たり寄ったりなのが不思議だ。幹線道路脇に並ぶ外食チェーン店やコンビニ、戸建ての家々や時々現れる工場というように、町の構成要素は規格化されていて、見る限りは同じになった。でも俺の町には俺の時間が記録されているから、駅から実家までにある川や田んぼ、畑や空き地、向こうに見える北関東の山々はどこにも似ていない。
 家には飼い猫のオスカルが待っていた。オスカルは俺が帰ってきたところで尻尾を振るわけでもないし、すり寄ってもこない。だけど抱き上げて頬ずりしても特に抵抗することもないし、膝に乗せて撫でていれば柔らかな体を俺に預けてくる。その重さが愛おしい。東京に連れて行きたいところだが、あちらには金魚がいるから無理だ。それに、あんなところにオスカルを閉じ込めておくわけにもいかない。何か俺を癒やしてくれる可愛い生き物はいないだろうか。赤ちゃんとか幼児なんか最高なんだけどなぁ。俺、やっぱり一人暮らしは合ってないのかな。結構快適に暮らしてるつもりだったけどなぁ。
 炬燵でテレビを見ながらスマホを弄っていると、母親がおばあちゃんが作った煮物やスーパーの揚げ物、そして焼き肉用の牛肉と野菜をテーブルに並べ始めた。帰る度に焼き肉だが、俺は別に困らないし、母親もこのメニュー以外に有り得ないと思っている。正月まで何日もあるし、パートで事務をしている母親は年末までは忙しい。それでも俺が帰ってくると、ついつい可愛い息子の世話を頑張ってしまう。ありがたいけど、適当でいいと思う。一人暮らしに慣れると勝手が身について、規則正しい生活が重荷になる。
 母親は肉を焼きながら、日常の出来事をペラペラ話していたが、そのうち同級生の誰彼がどうしたとか、あまり聞きたくないような話をしてきた。父親は無口ではないが、母親の話題にはさほど興味がないようで、相槌を打ったりテレビを見て笑ったり、実に適当なスタンスでそこにいた。三歳違いの夫婦だが年上の父親に威厳はない。だが、割と上手く母親を操縦できていて、その点は尊敬している。
 父親は高校で社会科を教えているが、マメで器用な性質が家庭では重宝しているようだ。母親は働き者だが、結婚するまで百貨店の外商にいたせいか、やや派手好きでミーハーであり、最近の流行語「マイルドヤンキー」に属している。附属小中学校の父兄は意識が高いのが当たり前で、医者の子供も多かったから、母親は付き合いが大変だったようだ。父兄の活動が盛んだったので、特に心理的な負担が大きかっただろう。
 俺が中二の時に、父親はかなり遠方の学校に回され、通勤時間は格段に長くなった。俺の転校を避けるために頑張ってくれていたが、残業が多くて遠距離通勤はきつかった。そこで新しい勤務先である学校が、母親の実家から程よい距離にあったので、その地の建て売り住宅を買ったのだ。
 母親は、距離が離れてしまったもののママ友とは毎日ラインをしているので、持っている情報の多さは凄まじいものだった。それに電車で一時間半かければランチ会にも参加できるのだから、孤独とは縁がない。ごく近所に暮らしているまだ元気な両親宅もまめに訪ねていて、忙しい日々だ。
 俺はお婆ちゃん子だった。おばあちゃんは大変しっかり者で、中途半端が大嫌いだ。誠実に物事に取り組む人間が一番だと言うのが口癖で、おばあちゃんがいなかったら俺はあの進学校の高校には行かなかっただろう。
 結果的には、父方のおじいちゃんが進学の手助けをしてくれたのも大きい。おじいちゃんは日本海側の小都市に住んでいるが、兄弟が多くて小学校を卒業するとすぐに建設機械メーカーの大企業に入り、附属の工業専門学校を経て機械設計者として三十年働いた。課長になって過労から心臓病になり、高血圧症も併発し、退職した。まだ四十二歳だった。その後設計師として独立したが、やっと生活できるくらいだった。だが俺が五歳くらいの時、発明した機械設備が大当たりして、小金を稼ぐこととなった。父親を県内の駅弁大学、父親の妹である叔母を地元の短大にしか出せなかったことを残念に思っており、俺の通学援助をしたようだ。
 父の出た地方国立大学は以前、二期校と呼ばれており、就職が安定していることだけが利点で極めて地味だった。父親は家から隣県にあるこの大学に通い、雪が積もる冬季だけ下宿しながら無難に大学を卒業した。四年生の夏に教員採用試験を受けたが、その際に高校社会科教員の採用倍率が高すぎて、県内及び近隣の公立高校の教師になるのはとても無理だった。そこで、倍率がやや低かった俺の地元で採用が決まったのだ。
 母親は県内の短大の経理科を卒業して、百貨店に勤め、その六年後に職場の上司の紹介により、見合いのような形で父親と結婚した。

インストーカー50

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その50

    素晴らしいクリスマスパーティーは終わり、ワンルームの部屋にはもみの木と巨大ケーキの食べ残しと袋一杯のゴミと俺だけが残った。この日のために、急いで炬燵も買ったのに、パーティーの前まで俺の気持ちを躍らせていたものは、今となってはひときわ無機質に見えた。いたたまれずスマホを取り出すと、炬燵に入って今日撮った写真を逆回しに眺めた。
 最後にみんなで撮った記念写真。愛梨のおかめ顔は愛嬌があって、俺は好きだ。理人は相変わらず澄まし顔だな。かっこいいけど気取り過ぎ。千夏はいつもナチュラルだ。雅貴、おいおいまた写真からはみ出して、照れ屋だな。まともに写ったら、一番イケてる男なのに。俺、幽霊みたいだ。今日、ずっとこんな顔してたのかな。
 ケーキのろうそく消しは大騒ぎだったよな。主役二人で一気に吹き消したから、一瞬で真っ暗になり過ぎて慌てた。
 その前にプレゼントを渡した。雅貴、泣いてたな。あいつカラオケでも泣くんだもん、情緒豊かなやつ。うわっ、理人も泣きそうになって神妙な顔してる。かわいい。プレゼント、すごく喜んでたな。
 そうそう、クリスマスツリーの飾り付けは小学生以来だったな。愛梨のこのショット、本当にいい眺めだ。サンタクロースを待つ子どもそのもので、愛らしい。
 ふと顔を上げると、流しの洗い物かごの中にある大きな鍋が目に入った。憧れていた「こたつで鍋パ」も実現した。みんなで準備した鍋をつつくのは格別に楽しい。闇鍋だったけど、不思議にどの具材もうまく溶け合っていて味も最高だった。
 鍋は盛り上がりるための最高の助っ人だ。鍋奉行がいなければ、ふざけた奴が必ず騒ぎの火種を起こす。JLAメンバーだと、待ってましたとばかりに全員で騒ぎの火柱を煽ることになる。それがルールであり誠意の表れなのだ。そのJLAと大きな理由もなく距離ができてしまったのは、大学の集団によく見られる現象だ。
 JLAは入学前にネットで結成した学科内の巨大組織で、百人あまりの学科生の半分以上で構成されていた。入学してグループを仕切る幹部が確定されると、他のメンバーの中に違和感を感じるやつが出てきて、順次ネットワークから抜けていった。変に義理人情を感じたりさえしなければ、クリックひとつで退会の手続きは終了するのだから気軽なものだ。
 主な退会理由は、幹部との確執ではないだろうか。この大組織のボスになるには、容姿、学力、洗練されたセンス、リーダーシップがあり、それと矛盾した、生来の身勝手さと厚顔無恥な気質も持ち合わせていることが、絶対条件だった。一つ二つ、いや三つまでは何とか揃っていても、全てを揃えるには矛盾がある。
 まず雅貴のように本当に頭のいいやつは、知性が邪魔をしてわがままにも厚顔無恥にもなれない。逆にわがままなやつは、自分に似合うものでなく自分の好きなものを身に着けてしまうから、ファッションの評価は下がり、洗練されたセンスの持ち主とは見なされない。自分勝手な勉強法で学力も伸び悩む。
 ではリーダーは何故、わがままな人間でないといけないのか。一般的に、わがままな人はリーダーにはなれないと考えられている。しかし、大学生の集団という危険物を取り扱うのは、本当の危険性を理解できない、頭が少し足りないやつでないと難しいのだ。そして危険物を扱うには、それ相応の覇気がないといけない。バカと覇気が合わされば、当然、我がままが生まれる。やりたいことをやり通す時、人の都合を一々考えていたら実現しないから、バカプラス覇気から生じた我がままが活躍するのである。
 集団を動かす時に大多数の原理を使うこともあるが、アイデンティティが確立しつつある大学生が作るグループでは、それは良い選択肢とは言えない。大学生グループは利潤目的や義務もないのだから、無難を示す多数決などでまとまるはずもない。必要なのはリーダーの「黒いものでも私が白と言ったら白なの」という自己中心的な意志だ。大学生にとって、常識より信頼するリーダーの気持ちを忖度することの方が大事なのだ。これが大学の小集団におけるカリスマの原理だ。
 JLAのトップリーダーは、カットモデルをやっている美形の女子でもタレント志望のイケメン野球野郎でもなく、小柄美人の三輪ちゃんが務めている。鬼畜レベルの我がままで、荒れ出したら手が着けられないという噂が流れているが、実のところその通りだ。自慢のファッションは綺麗な顔によく似合っているが、アンチ派の評価は低い。それは、自分の好きなものを煩く身につける大阪のおばちゃんスタイルでダサいという理由からだ。凝りに凝ったモード系を大阪のおばちゃんと言われて、三輪ちゃんも怒り心頭だろう。俺は三輪ちゃんとは趣味や性格が合うので全然違和感はない。結局、モード系か大阪のおばちゃんかは三輪ちゃんに対する好感度で決まるのだろう。
 そんな三輪ちゃんと、彼女を持ち上げる周りの幹部メンバーに不信感や嫌悪感を持つ人たちがどんどん退会していった。そして俺達のグループは、準メンバーとして緩く付き合いを続けている。グループで合流して遊ぶことはめったにないが、個人的には十分に親しい関係を保っていたのだ。
 JLAの幹部たちは根っからの遊び好きで、派手を好む。その異様なテンションに恐怖感を覚えたこともある。今のグループメンバーはJLAからの付き合いだが、自然体でいられるのがいい。鍋パも当然理人が鍋奉行になるので、調子に乗りやすい俺と千佳を抑制し、愛梨を安心させている。雅貴だって余計なエネルギーを使わなくて済む。みんなバカ騒ぎをしても、最終電車に間に合うように片付けをしてちゃんと帰ってくれる。だがJLAだとそうはいかない。誰も電車のことなんて考えていないから、ベロンベロンに酔って雑魚寝するしかなくなる。その上ゲロの置き土産までつけるのだから、たまったもんじゃない。そこで繰り広げられる男と女の乱れた交遊。あぁ、吐き気がする。グループ内でくっ付いたり別れたりを繰り返して、みっともないったらありゃしない。手近かなもので手を打とうとするからそうなるんだ。俺は友達も女も、絶対妥協しない。
 「いい日だった」とつぶやくと俺は急に疲れを感じて、炬燵の中で体を横たえた。明日は実家だから、テスト勉強用の教科書とノートも持っていかなきゃ。荷物まとめるのは面倒くさい。まぁ、指定席じゃないから夕方までに着けばいいや。俺は炬燵の中で翌日昼まで寝ていた。

インストーカー49

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その49

 クリスマスまであと五日だ。後期の授業をわずかに残して、明日から短い冬休みが始まる。正月は実家で過ごすからクリスマスには田舎に帰ってしまっているが、その前に俺の家で理人と雅貴の誕生日のお祝を兼ねたクリスマスパーティーを、明日することになっている。
 雅貴の誕生日は一月三日だ。正月はさすがに会えないから、先取り祝いである。プレゼントの品は愛梨、千夏と渋谷アカリエまで行って、愛飲家の理人にちょい飲みグラスを、写真に凝っている雅貴にはフォトスタンドを買った。それと三人の力作であるバースデーカードもあるが、これは涙ものだろう。今まで撮り貯めた飛びっきりのショットから厳選した写真に、イラストと言葉を添えてアルバム風にしたのだ。五人一緒のものもあれば、男三人で無茶苦茶した時のお宝写真もある。これには二人とも苦笑するだろうが、いい思い出だ。もちろん彼らのイケメンショットも忘れてはいない。
 俺はこれまでずっと、率先してカメラマンを請け負ってきた。今一瞬を未来永劫に残す行為は俺にとって使命にも思えるのだ。愛梨と千夏は、選びきれないほど良い写真があって困る、と真顔で言っていたので、自画自賛でなく良い仕事をしたようだ。
 クリスマスケーキは大規模格安スーパーに売っている話題の超大型ケーキに、みんなでチョコペンでデコることにした。レンタルのもみの木も届いたし、あとは当日に各々分担された食べ物を持ち寄るだけだ。こんなに楽しみなのは久しぶりだ。
 高校の友達とも気の置けない付き合いをしてきたが、何分男子校なので、パーティーを企画するのはハードルが高かった。この大学に来て、こんなにいい仲間ができるとは全く予想していなかったし、勿論期待もしていなかった。あとは恋愛だけだ。恋と友情に溢れた学生生活こそ、リア充と呼ぶにふさわしいのだ。
 明日のパーティーのことで忙殺されそうだが、俺の命の時間であるこの英語の時間だって決しておろそかにはしていない。シズカとの時間を有意義なものにしなければ、何事も無きに等しい。シズカを待ちながら気合いを入れると、握り締めた両手の平にじわりと汗を感じた。
 シズカが教室に入って来たのを確認した。いつもこの瞬間に血圧が通常の倍くらいになっているんじゃないかと思ってしまう。高血圧症のおじいちゃんは、血圧が高くても具合が悪いどころかむしろ元気で、だからこそ危ないんや、と言って一日三回血圧を計っていたが、大学生の俺にも気持ちはわかる。心臓がパクってなって、フワッて感じてあれって思って、血が湧き上がる上昇感でなくて足元にザッと下がる感じで心もとなくなる。シズカを見ると、東京の街中で突然方向がわからなくなった時の、どうしようもないやけくそ感に似た気持ちが呼び起こされる。悪い感情ではないけれど、そこに敗北感があるのは間違いない。挨拶時点ですでに先手を取られ、そのまま引き摺られる形でたどたどしい会話が続き、小テストで自信をなくし、授業で先生にいじめ抜かれて、自尊心を丸ごと喪失したままシズカと別れてしまうのがほとんどなのだから、いつまで経ってもオドオドしたユウキくんから脱出できないのだ。今日は先手だ。俺から挨拶して会話の主導権を握らなければならない。おはようを明るく爽やかに。さぁ!
 「‥‥」
おはよう! の「お」が音声化されず、続く「はよう」を発することができなかった。どうした? 風邪はひいてないのに、声が出ないなんて。
 吹奏楽部の助っ人をしていた時、俺の目の前のトランペットのやつが、たった一小節のソロでぷすりとも音が出せなくて、先生の指揮棒だけが虚しく動くという惨事が起きた。市民会館ホールで行われた、秋の音楽会での出来事だった。コンクールじゃなかったのでお咎めなしだったが、先生は勿論、そいつも驚いただろう。緊張し過ぎると吹奏楽器は音が出なくなるのだが、今それが起きたかもしれない。
 俺はシズカの顔を見るのは無理なので、挨拶する時はいつも顔は正面を向いたままだった。それに、俺から挨拶することなんてこれまでに一度もなかった。だから、シズカは俺が重大なアクションを起こそうとしたことには全く気づかないまま、当たり前に「おはよう」と言った。俺は先に挨拶するという予定が狂ってしまったことで次のセリフを忘れてしまい、更に焦っていた。するとシズカはいきなり
 「ねぇ、童夢君、先週のゼミを休んでたけど、どうしたのかな」
 と聞いてきた。は? 童夢? シズカが何で童夢のことを聞いてくるの? イラッとして「童夢は元気だけど」と答えた。シズカは
 「文学史の授業にも来てなかったから、体調悪いのかなって思って」
 と優しい声で話を続けた。
  「あいつ、学校に来てるけど、授業は出ないんだ」
  物凄く蔑んで言うと
 「なら、良かった」
 とシズカは明るく優しい声で言った。俺は心底驚いた。学校に来てるのに、授業に出ないなんて馬鹿の極みだよ。あいつは学校に来て、授業に出ずに食堂で暇な奴を探して、ポケーッとしてんだよ。童夢バカだねぇ、って呆れるでしょ、普通は。童夢にだけ異常に優しいの? それとも俺以外の男にはもれなく優しいの? まさか、俺にやきもち焼かせるためにわざと言ってんの?
  「あんなんでゼミの単位貰えるなんて、不公平だよな」
 毒が体内から言葉になって溢れ出してくる。憎い。何の努力もしていない童夢ばかりが好意を持たれるのが許せない。
  「うちのゼミは、みんなだいたい同じレベルでしょ」
 シズカが感情のない声でそう言った。
 「えっ!? そんなことないだろ!!」
  心外が度を超え、憤怒に変わって、俺は叫んだ。シズカからは何の言葉も無かった。俺も怒りが収まらなくてしばらく黙っていた。沈黙が続いた。腹が立つ。だけど男は広い心で女の無礼を許さなきゃいけない。シズカは悲しい顔で俯いて、俺の怒りをどうしたら解けるか、思案しているだろう。でも、俺はそんなに心は狭くないから。
 可哀相なシズカの姿をチラ見しようと、黒目をゆっくりと左にずらした。予想に違わず、シズカの石膏像のように白く表情のない横顔が見えた。だが予想外だったのは、シズカが英語の小テストの勉強に熱心に取り組んでいたことだ。俺との会話から解放されて喜んでいるとしか思えないような清々しさが見て取れた。そしてもう絶対話し掛けてこないでというオーラで厚く覆われていた。拒絶。シズカの感情を形容するのに、他の言葉は一切必要がなかった。拒絶。
  「やってしまった!」
  俺は頭を抱えて叫んだ。前に座っていた吉岡由佳が振り向いて何か話し掛けているようだったが、無視した。鬱陶しい。沈痛の時が重苦しく俺を圧していた。
 授業が終わるとシズカは無言で帰り支度をして、足早に教室から出て行った。俺はしばらく放心状態で、ゴミのように座席にいた。田島がコートを着せてくれた。先生が帰りそうなので、小テストも取ってきてくれた。リュックを俺に持たせて「行こう」と田島らしくない、はっきりとした声を俺にかけた。

インストーカー48

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その48

 明日は午後から日本文学史と図書館司書の授業があるけど、朝はゆっくりできる。今から風呂に入って、シズカのDVDでも観ようかな。でも今日は止めとこうかな。気分次第だな。
 飯の後しばらく、だらだらとスマホをいじってから風呂に入った。男の風呂なんてカラスの行水だと思われているだろうが、男にだって美容は大切だ。先月、表参道のセレクトショップで一目惚れして買ってしまったバスオイルは、当たりだった。ローズ系はたいがい作りがかわいくて買いたくなるけど、匂いが苦手だ。「霧の森」という何系なのかよくわからない、神秘的な色と形のバスオイルが気になってじっと見つめていたら、お店の人におすすめされてつい買ってしまった。
 ミルクグリーンの湯舟からほのかに香る若葉の匂いに誘われて、俺は深呼吸をした。するとシズカが発した不穏な言葉は、気にするようなものではないように思えてきた。照れ屋のシズカは言葉も態度も他人行儀で壁がある。だから俺がこのバスオイルみたいに、シズカの心を柔らかく解きほぐしてあげないといけないのだ。シャンプーの泡を全開のシャワーでわしわし洗い流すと、心のもやも一緒にすっきりと流されてしまった。
 軽くウェーブをかけているライトブラウンのお気に入りの髪を凄く念入りにブローした。心も体も温まったけど、もう体を起こしているのが面倒になりベッドに倒れ込んだ。半袖シャツから出た素肌の腕にかすかに香るバスオイルの匂いが、今日の終わりを告げているみたいに感じて目を閉じた。今日シズカが俺にしてくれたことを頭にトレースして形作った。出来上がった物語はお伽話のように純粋で幸福なものだった。俺の妄想なんかじゃない。テーブルの上にあるDVDが夢じゃないんだよと告げていた。これはシズカからの早いクリスマスプレゼントだったのだ。
 シズカの愛と勇気を素直に受け取らなくてはならない。俺はベッドの上に体育座りをして、テーブルの上で微笑むキリコさんの美しい顔を眺めていた。勇気を出して! という声が聞こえた。俺はDVDをケースから取り出すと、再生機に差し入れた。
 初めての一人暮らしで寂しくなるから、と親にねだって買ってもらった35型テレビから、キリコさんの幕開けの挨拶が流れてきた。最近はパソコンで動画ばかり見ていたが、生の舞台には及ばずともやはりテレビは音響がいい。素晴らしい声だ。この劇団では主役スターが演目の始まりに必ず決まった文言の挨拶をする。興味のない人は、こんな紋切り型の挨拶のどこがいいのだろうと思うかもしれないが、俺たち劇団風ファンにとっては、無くてはならないものだ。例えば、オリンピックのファンファーレとでも言えば、理解し易いだろうか。トランペットの輝かしい響きと挨拶の声はよく似ている。幕が上がる前、この挨拶と共に全ての観客は劇団風の世界に入る。そして演目が終わり長い長い拍手が止み、場内に明かりが点るまでの間、この世界から誰一人として出て行くことはできない。
 幕が上がるとキリコさんはせり上がりで登場した。薄紫の着物の袖を翻して舞う姿の凛々しさに見惚れてしまう。もう劇団風を引退してしまったが、これは初主演お披露目舞台だから、初々しさに溢れている。
 シズカはゼミで源氏物語世界の美しさに惹かれると発言していたが、だからこそキリコさんが好きなのだ。キリコさんは創造する美に強いこだわりを持っている役者だと俺は思う。舞の形、動きの線、場にふさわしい声色、表情の多彩さを常に意識している。ナチュラル派と呼ばれる、才能だけが頼りでほとんど成り行き任せの舞台を展開する役者もいる。だが、キリコさんは違う。彼女はたゆまぬ訓練を行った上で、計算された造形美を披露することこそが、舞台の本質だと語っていた。そういうところに、シズカと俺は惹かれているのだと思う。二人が磁石のように引き寄せられるのは、美に操られているせいなのかもしれない。
 シズカが感想を聞かせてとメッセージカードに書いていたから、今度の授業で伝えよう。キリコさんは素晴らしかった。DVDを貸してくれてとても嬉しかったと。今年最後の授業できちんと言おう。
 35インチの枠の中で、キリコさんは羽を背負って手を振っていた。

インストーカー47

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その47

 シズカの言葉に打ちのめされて、俺は放心状態で学校を後にした。ラインかツイートをすれば、誰彼と校内で落ち合うことができた。だけど体は勝手に家へ向かっていた。誰にも会いたくない。この喜びと悲しみが交錯した歪んだ気持ちを、どこにしまい込んだらいいんだ? いっそ冷たい冬空に、花火みたいに打ち上げてしまおうか。その花火はさぞかし奇妙な美をまとっていることだろう。悲しいわけではない。けど喜びには影が差し「疑惑」というもやに変化してしまった。聞かなければ良かった。だけど、俺がDVDを持っているのも事実なのだ。言葉とは真なのか、それとも偽なのか。俺はいつもシズカの言葉に振り回されていた。
 家に着くとすぐテレビの電源をオンにして、リュックを担いだまま正座をしてDVDケースを開いた。何これ? DVDの上に紙切れがあった。「観たらメールで感想を聞かせてね!「風」のこと色々教えてね。」そして最後にメアドが書かれていた。小文字のアルファベットが丁寧に並んでいる。マジか!? こんなところに連絡先を忍ばせるなんてキャバ嬢か? 頬が火照ってエアコンを消したいくらい暑くなってきた。し、ず、か、いち、に、に、ご。えっ、1・2・2・5って理人と同じ誕生日なの?彼氏の誕生日とか…な訳ないよな。シズカと理人は同じ誕生日の運命の二人なのか。
 俺は梅雨がぐずぐずと明けない7月6日に生まれた。夏生まれの母親は、産まれ出ずる子供と梅雨が明けるのを心待ちにしていたようだ。予定日を5日過ぎて明日が七夕という日に誕生した息子に、母は「星」を名前に入れることを父に切望した。そして父は風呂の中でポンと浮かんだ「星彦」という名前に決めたのだ。
 キリストが生まれた日、雪がちらつく厳しい寒さの中で産声を上げた二人に比べて、じっとりとした空気の中に押し出された俺は、粘着質な気質が生まれながらにあるのかもしれない。俺もクリスマスに生まれていたら、違った人生だっただろう。
 猫のイラストがある小さなメモ紙に書かれたシズカのアドレスをスマホに打ち込むと、そのメモ紙をおばあちゃんが作った和紙でできた小箱に入れた。つい先日、麗先生から送られた手紙に重ねると、同じ人から届いた手紙をしまっているような気になる。似ている。文章も字も手紙から香る空気も驚くほどに似ている。
 急激にモヤモヤはイライラに変わった。もう一度箱を開けてシズカの手紙がかぶさった麗先生からの手紙を抜き取った。手紙を開いて、同封してあった旦那さんのピアノコンサートのチケットを並べて、スマホで写すとインスタに載せた。「いつもお世話になってるから、コンサートチケットをプレゼントさせてね」と書かれた手紙が画面一杯に写し出された。俺は「ラブレターを装ったステルスマーケティング」というコメントを添えて、インスタにアップした。お世話…そりゃそうだろう。大して有名でもない、二流音大出の旦那のコンサートチケットを押し付けて来るから、友達に無理矢理買わせたり、こっちの負担でさくらをお願いしたり、どれだけ尽くしたことか。俺はテスト前でも入試前ですら欠かさずコンサートに行ったんだ。感謝されて当然だろう。麗先生もシズカも、態度の根本に義務感があるし、基本的に自分本位である。だからどんなに優しい言葉をかけられても、何か目的があるように感じて仕方がなかった。
 テレビからバラエティーで大騒ぎする芸人の強く張った声と、観客の笑い声が流れてくる。番組もシズカのDVDも観る気になれず、テレビを消すこともしないで、スマホでネットサーフィンをした。気がつくと番組は一時間もののサスペンスドラマに変わっていて、もう八時を過ぎていることに気付いた。腹減った。向かいのコンビニで晩飯を調達してこよう。
 心の虚しさは空腹と重なり、俺はおでんのウインナー巻き、玉子、大根、じゃがいも、しらたき、ロールキャベツと厚揚げに唐揚げとおにぎり二つ、デザートにプリンを買った。食べ始めでは買いすぎた感があったが、どんどん腹に収まり、完食した。最後に「夜の紅茶・ミルク」を飲むと、ふぅと息をついた。

インストーカー46

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その46

 金曜日の英語が終わると、シズカから声をかけられた。
 「はい、これ、劇団風のDVD。ユウキくんが好きな演目かわからないけど、良かったら観て」
 マジか!? 俺は驚き過ぎて、鳩が豆鉄砲を喰らったよりも間抜けな顔をしていたのではないだろうか。シズカは「好きでしょ?劇団風」と言うと、受け取らなかったらコ・ロ・スと目で威嚇して、笑った。その眼力の強さに圧倒されたし、俺が劇団風のDVDを受け取らない理由はなかった。
 前回の授業で扱ったのは、劇団風の外国公演やトップスターの苦労話を取り上げたトピックスだった。もちろん予習もしたが、とにかくこの章はめちゃくちゃ分かり易いのだ。和訳には知識がいかに大切かを知った。いつ当てられてもばっちり答えられたのに、こんな日に限って先生は当ててこない。訳をしていく中で先生が
 「この劇団は組に別れていて、それぞれに名前が付いてましたよね。何でしたっけ」
 と学生に問いかけるように呟いた。先生、そんなことも知らないんですか? 常識ですよ。常識!
 「花嵐、涼風、野分き、木枯らし」とリズムに乗せて歌うように何度も繰り返し呟いた。隣の田島が驚いて俺を見ていたが、やがてテキストに目を移すと微動だにしなくなった。その時にシズカが俺の斜め後ろから、その呟きを聞いていたのだろう。それにSNSではとっくに、自分が風オタであることをカミングアウトしているから、シズカはだいぶ前から知っていたはずだ。
 「急いで返さなくていいよ。ゆっくり観てね」
 嬉しかった。本当に嬉しかった。俺はお礼を言って、DVDを受け取った。
 「日本物だけどね。桐香けいさん主演だよ」
 キリコさん! 歌、ダンス、芝居何でも来いで、その上劇団出身女優の中で一、二を争うくらいの美人である。俺は日本物よりも海外ミュージカルの方がうんと好きだけど、キリコさんの日本舞踊はどんなに艶やかだろう。ああ、今すぐ観たい。
 俺はガチの劇団風オタクだった。だからシズカが何故キリコさんのDVDを持っていてそれを俺に貸してくれるのか、ということを問う「えっ、何で俺が劇団風が好きだってわかったの? 英さんも劇団風が好きだったんだ」というセリフをあっさりスルーした。そして、いきなり劇団風について語り出してしまった。
 「俺は海外ミュージカルが好きなんだけどさぁ。先月『エリザベス』の舞台観たんだけど、感動したよ」
 「エリザベスにつきまとう死神が妖艶なんでしょう。まだ観たことないけど」
 つきまとう? 少し違和感のある言葉だったが、笑顔で答えた。
 「はすみんの死神、最高だったよ! でもエリザベス役の雪乃るり花は歌が死んでて、残念だった」
 主演のはすみんこと羽純涼は、小柄だが美の化身と言われるほどの美貌で、さらに実力も持ち合わせた花嵐組トップスターだ。雪乃るり花は女役トップスターで、リアルフランス人形と言われるほどの可愛い外見なのだが、いかんせん歌が苦手なのだ。歌がだめでも主役ができるのは、この団ならではのことだ。
 「そうなんだ。るり花さんてすごくきれいな人だよね。この前、駅のポスター見てびっくりした。じゃ私、小野先生に聞かなきゃいけないことあるから」
 シズカは手でバイバイをすると、小走りで先生の方に行ってしまった。Hの途中でダメと言われてお預けを食らって、呆然としている男みたいになってしまったので、手にしたDVDを確かめて、これは妄想じゃなくて現実なんだと自分に言い聞かせた。
 先生と話し込むシズカを教室に残して廊下に出た。そしてしばらく歩いたが、俺は立ち止まった。もう一度シズカにありがとうって言いたい! 体は教室へと向かった。理性や迷いなどはもう欠片もなかった。
 教室にはシズカと先生の二人しかいなかった。先生は何? と言いたげな、不審者を見るような目つきでこちらを見ていて、何か弁明をしないとここに居るのは無理だなと悟った。
 「僕、今日遅刻だったんですけど、出席になってますよね」
 遅刻という言葉に眉をひそめると先生は更に不機嫌になり、吐き捨てるように「あなた、名前は?」と言った。
 「結城です。結城星彦ですよ」
 馴れ馴れしい態度だと思ったのだろうか。先生は「ユウキ…」と呟くと険しい顔で出席表を見つめた。
 「ああ、遅刻の出席だわ」
 「遅刻の」をわざわざ付けるあたり、ホント俺の苦手なタイプだ。オバサンはこれだから…。とにかく長居は無用だ。
 俺は飛びきり元気に「あっりがとうごっざいま~す!」と言うと、得意のバレエスタイルでクルリとターンした。そして、スキップしながら廊下まで移動して、忍者みたいに壁に体をぴたりと張り付けた。
 「何なの? あなたの知り合い?」
 怒りで尖った先生の声が響く。
 「ゼミが同じです」 シズカは答えた。ゼミは真面目に来てます。ちょっとお調子者だけどムードメーカーで友達も多い子なんです。なぁんてシズカが紹介するかもしれない。
 「あら、ゼミが同じなの? だったら注意しておいてくれない?あの人、遅刻が多いのよ」
 シズカのお説教なら喜んで聞くよ。
 「あまり親しくなくて、ほとんどしゃべったことがないので…」
 えっ? 何それ。どういう意味なの? 俺は心底落胆した。何でそんなこと言うの? ほとんどしゃべったことないの? 俺ら。シズカがわからない。さっきのシズカは誰なのだろう。俺にこのDVDを渡してくれたのは別人だったの?

インストーカー45

あらすじ

 都内の大学に通う結城星彦は、不本意に入学したこの大学で、初恋の人にそっくりなシズカに出会う。
  シズカとはゼミが同じだったが、後期になっても自分の存在を知られていなかったことを知り、星彦は一大決心をする。

 

登場人物

結城星彦…片思いに悩む、関東の地方都市出身の大学生。印象が薄く、好きな女性に存在を知られていなかったことに大きなショックを受けている。

シズカ…星彦が片思いをしている女性。穏やかだが感情がわかりにくく、付き合いにくい。

理人…星彦の親友。六本木で生まれ育ったおしゃれ男子。

愛梨…理人の彼女。ぽっちゃり体型が悩みで、食べることが大好きなのに我慢の日々である。

雅貴…地方出身の仮面浪人生。星彦が信頼を置いている。

 

その45

    JLAのやつらはじゃれ合いながら大笑いして、廊下いっぱいに広がって移動をしている。
 「今日、教職説明会行くやついる?」
 「あっ、俺行く。会場どこだっけ」
 「1205教室じゃなかった?」
 「一号舘、遠いし寒いし、うざ~い」
 説明会は本当にうざかった。まず最初に普通のお話があるのに、段々イヤ~な気分になってくる。それは教職担当の指導教員が必ず、優しげな口調で脅してくるからだ。
 教員志望者は免許状を取得するまでに様々な試練を乗り越えなければならない。それは担当教科や教育心理学を勉強することではない。「お前らは教員になどなってはいけない」と堂々と言うことがはばかられる大人たちが考えた苦肉の策が、不適格な教員志望の大学生をあぶり出すために、不条理な罠を沢山用意して脱落させていく障害物レースを用意することだった。
 まず説明会を数回行い出席を取る。一回欠席で厳重注意のイエローフラグが立ち、態度が悪ければ次の機会で一気に首にできるレッドフラグがはためく。書類や実習費用の払い込みを何度にも分けて提出させ、一度でも提出期限を過ぎたら免許状を取る意志がないとみなすと豪語する。単に忘れただけなのに、取る意志がないと勝手に言い張る大学の横暴さよ! 小心者の俺は毎日、大学のメッセージサイトを見る習慣がついてしまった。
 今回は夏休み前にあった初回に続く二回目で、かなり本格的な説明会となっている。三日間のうち都合のいい日を選べたのだが、万が一最終日で不都合が起きようものなら大変だと考えて、俺は一回目に参加しておいた。今日は最終日で、バイトが込んでいて先延ばしをしていた理人は今から会場に向かう。
 JLAメンバーの教職希望者のうち二人が同じくバイトで参加できず、最終回まで追い込まれていた。
 「お前も来る?」
 さっきのショックが尾を引いて表情がおかしい俺を心配してか、理人が声を掛けた。この後バイトもないし、何にもすることがなかった。教職を取らない愛梨は食堂で待っていると言ったが、今は愛梨と過ごすのも気が重い。俺は理人の誘いにこくっと頷いて、JLAの二人、理人と共に一号館に向かった。

    1205教室には最終日だが意外に多くの人が集まっていた。教職の授業で最終的には三分の一位に減ると教授が言っていたが、この中から誰が脱落するのだろう。俺は教師になるためにこの学科に入ったのだから、教職を辞めることは有り得なかった。それは理人も同じで、俺ほど職業選択肢として圧倒的な比重を占めていないが、教えるという事に対しては、むしろ俺よりも強い興味があるように思えた。
 俺は将来の職業を教師と決めているだけで、スキルアップや職業内容にそれほど興味はなかった。理人は逆に、そもそも職業に対して後ろ向きなモラトリアム的学生でありながら、指導することや言語と教育の関係性に強い興味を示していた。先日はとうとう、学内の教育ボランティアサークルに入りたいとまで言い出したのだ。確かに教職にしても就職にしても、ボランティア歴はアピールポイントになる。俺も考えておこう。
 これからいくつもの難関を通り抜けなくてはいけない、かわいそうな子羊たちよ。だがまだその厳しさを本当に理解しているものは、ほとんどいないようだ。何てのんびりとした無邪気な顔をしているんだ。
 「シズカちゃんて国文科の子が今日一緒だからよろしく」
 シズカ…? 俺の体はシズカと言う言葉に反応して立ち上がった。そしてキョロキョロ辺りを見回したが、シズカは見当たらなかった。
 声の主はミポリン文学史の授業にいる、小柄でアイドルみたいなかわいい顔をした、マリちゃんと呼ばれている史学科の女子だった。ゼミの課題の話をしていたので、もう一人も史学科なのだろう。確かに国文科にはあんなに面白味がない、まともそうな人はいない。史学科は限りなくロマンチストなのに、データが命だから脳内はきちんと整理されていて、文章や言動もいたって常識的だ。
 そうか、シズカはまだ説明会に来てなかったのか。理人について来て良かった。シズカが来るまで落ち着かなく、俺は立ったまま前と後ろのドアを交互に監視していた。理人は座れと言うこともなく、ただケータイを見ていた。数分後にシズカはゆっくりと教室に入ってきた。「シズカ!」史学科のマリちゃんは、顔に似合わない野太い大きな声でシズカを呼び、シズカは顔の横で手を小さく振ってにこやかにこちらに向かってきた。シズカ、さっきの肩枕はあいつが勝手にしてきたんだよね。先生がヒステリー起こすのが嫌だから、それで仕方なくされるがままになってただけだよね。大木とデキてなんかいないよね。ねぇ、シズカ。
 シズカは俺に気付くと顔を歪ませた。だけどそれも一瞬で、すぐにいつもの穏やかな顔に戻っていたので、きっと俺の気のせいだ。シズカの姿を確認すると安心して、俺は座席に腰を下ろした。
 説明会が終わるまで俺の体は蠢いていた。シズカは俺より後ろにいるので、その姿を目にすることはできない。それでも体から湧き上がる熱は治まらない。この熱は体温ではなく、情熱だ。春の息吹、情動だ。同じ空間にいるだけで生まれてくる。大木男とデキているなんて有り得ない。シズカは誰のものでもないし、これからも誰のものにもならない。
 もうすぐクリスマスだ。シズカへの贈り物の準備をしなければならない。今はそのことだけを考えよう。シズカの気配を背後に感じながら、シズカがどんなに驚きどんなに喜ぶかと想像して、心ときめいていた。